渋沢栄一と養蚕業

つい先月末、当社養蚕部では秋繭の出荷を無事に終えることができ、
毎年製糸をお願いしている松岡製糸の方々から、上出来とのお褒めの言葉までいただくことができました。

きれいな糸になって戻ってくるのが楽しみです。

さて話は変わりますが、今年の大河ドラマ「青天を衝け」はご覧になっているでしょうか。

このドラマのメインキャラクターとなっている、渋沢栄一。

近代日本経済の父とも呼ばれる渋沢栄一は、一民間経済人として株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れるとともに「道徳経済合一説」を唱え、第一国立銀行をはじめ、約500もの企業に関わりました。
それだけではなく、約600もの社会公共事業、福祉・教育機関の支援と民間外交にも熱心に取り組み、数々の功績を残しました。

青天を衝けビジュアル  画像:https://www.nhk.or.jp/seiten/

さて、その渋沢栄一(以下、栄一)ですが、じつは養蚕とも大変縁が深いのです。

大河ドラマをはじめからご覧になっている方はすでに、幼少期の栄一が描かれた話の中で、養蚕を行っているシーンを見たのではないでしょうか。

天保11年(1840)、埼玉県深谷市の血洗島の農家の家に生まれ、幼い頃から家業である藍玉の製造・販売、養蚕を手伝い、父市郎右衛門から学問の手ほどきを受けて育ったそうです。

現在ドラマでは、幕末の混乱期に、農家出身の栄一が、若き情熱とその商才を生かして、新政府下の近代日本の中枢で大活躍していこうかという場面が描かれ、ドラマも佳境に入っていくところですね。

幕末〜明治維新の養蚕業

ところで、当時の養蚕業について少し見ていきましょう。

当時の養蚕業というと、開国による生糸の輸出が盛んに行われるようになり、国内養蚕業の規模もしだいに大きくなっていきました。

こうして蚕糸類が、日本の主要な輸出品へと成長する一方で、粗悪な蚕種や生糸の製造・輸出が問題視されるようになります。

幕府もこれに対し取り締まろうとしましたが、いまいち機能せず。。。

そんな中で、王政復古の大号令。

明治政府は、封建社会から資本主義国家へと移行させるという政治的要求から、蚕糸業を国策として位置付け、それを財源として体制を強化しようとします。

しかし、上述の通り、それまで国内の蚕糸業では、各養蚕家がそれぞれ独自のやり方で養蚕を行っている状態ですから、「国の一声で一致団結しよう!」と、すんなり上手くはいかないわけです。

きっと長いこと封建体制下で苦しい立場に置かれ、不満も大きかった農家の人たちですから、いくら倒幕して新しい政府ができたとはいえ、すんなりと政府を信用しようとできる人は多くなかったのではないでしょうか。(なんだか昔の話ではないように感じます・・・)

 

富岡製糸場の建設 

tomiokaseishijo富岡製糸場

渋沢栄一の養蚕業への功績としてまず取り上げられるのは、富岡製糸場の設立でしょう。

上述のとおり、開国のあと、日本の主要な輸出品となった生糸ですが、しだいに品質の悪い生糸も出回ったことで、国外諸国からの信用が落ち、生糸の価格は下落してしまいます。

このため、最新の製糸技術を導入して生糸の品質を向上させることが、外貨を稼ぎ、国力を付けたい明治政府の緊急課題となりました。

そこで、明治政府が計画したのが洋式の最新繰糸器械を備えた官営模範工場の建設でした。

このとき、明治政府の大蔵省租税正(そぜいのかみ)であった栄一が、富岡製糸場設置主任に任命され、フランス人技師ポール・ブリュナを雇うことを決議するなど、富岡製糸場の建設を進めたのです。

そして、この富岡製糸場は、当時の製糸技術開発の最先端施設として、日本の養蚕・製糸業を世界一の水準に引き上げる原動力となっていくこととなります。

イデオロギーとしての宮中養蚕

もうひとつ、栄一による大きな功績があります。

それは新政府が始めたのが「宮中養蚕」でした。

「始める」と言っても、もともと日本では古く雄略天皇から、聖徳太子の時代ふくめ、皇室によって養蚕が行われてきました。

それが一時途絶え、この王政復古とともに、改めて皇室による養蚕が「引き継がれた」という形です。

宮中養蚕之図

宮中養蚕之図

皇室による養蚕史については、各地の養蚕家も書物を通して知っていたことも相まって、新しい時代という機運と併せて、皇室と養蚕の結びつきを強力に示されたことは、彼ら蚕種家や養蚕農家が積極的に国内蚕糸業を推進する強いモチベーションになったのではないでしょうか。

>>日本の近代化と養蚕の関係については、以前の特集インタビュー「 社会学博士 沢辺満智子 − アナタの知らない養蚕のはなし」でも触れていますので、ぜひ読んでみてください!

つまり、「養蚕は、皇室も代々行ってきた尊い仕事であり、我が国の蚕糸業を盛り上げることは、幕府の古くさい風習を無くして、はやく新しい自由な世の中を築くことができるんだ!頑張ろうーーー!!」
・・・と言っていたかどうかは知りませんが、
宮中養蚕が与えた影響は、当時の養蚕に関わる人々には、少なくなかっただろうと想像できます。

さあ、そこで、いざ宮中養蚕を始めようとしたところで、白羽の矢が立ったのが、すでに述べた通り、養蚕業も行っていた豪農の出身の渋沢栄一でした。

栄一は宮中養蚕の相談役を任され、縁戚でもある蚕種家の田島弥平を世話役に抜擢し、皇室で養蚕を行う準備を一気に進めていきました。

なお、栄一に世話役を任されたこの田島弥平が、主に宮中養蚕の実行推進にあたったようです。

そして、この宮中養蚕を皮切りに、養蚕業は一気に近代化への道を進み、発展していくことになります。

渋沢栄一像渋沢栄一像(深谷駅前)

こうして、渋沢栄一が一役を担った富岡製糸場建設や宮中養蚕によって、日本は蚕糸貿易によって大きく成長することができ、それによって新政府が国内の近代化を一気に推し進める財源を獲得することができたのでした。

維新後の日本が、世界の先進資本主義諸国に劣らない近代国家となることができた背景には、こうした栄一の功績が隠れていたのです。

現在、当社がこうやって養蚕の技術を受け継ぐことができているのも、そうした栄一の活躍があったからと考えると、感謝が込み上げてきます。

(終)


 

【参考著書紹介】

養蚕と蚕神

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