特集インタビューNo.1 Vol.1 - 社会学博士 沢辺満智子 − アナタの知らない養蚕のはなし

特集インタビュー No.1 Vol.1  社会学博士 沢辺満智子

国内の養蚕農家が300件を切るほどまでに減少するなか、4年前から私たちの養蚕はスタートし、右も左もわからないところから、 多くの方々の協力を得て、桑畑を開墾し、養蚕小屋を建て、今では少量ながら美しい繭ができるようになりました。

蚕は数千年前から私たち人間とともに生き、多くの品種改良や技術革新を経て、今日私たちが行う養蚕にたどり着いています。しかし、こうして科学技術の発展した今でも、蚕は未知な部分が多い生き物と言われているのです。 

今回、昨年青山とみひろで開かれた講演イベントでも大変好評だった沢辺満智子さん(社会学博士)をお招きし、そんな私たちの知らない養蚕や蚕のお話についてお聞きしました。


 

 

 

「導かれるように始まった養蚕研究」

>>はじめに、養蚕というと、私たちがよく触れるのは農業か科学分野の話が多いのですが、沢辺さんの研究はどんな分野なのでしょうか。

 

私の研究は、分野で言うと「文化人類学」に位置付けられます。文化人類学は、私たちとは異なる文化圏に住む人々がどういう暮らしをして、どういった世界観を持っているのか、といった異文化を考えるための学問として発展してきました。

 

大量の蚕と暮らす生活は、昭和初期頃までは日本のどの農家もやっていたような一般的な営みでした。でも、今日からすると、何万、何十万の虫と暮らすということは、とても珍しいこととなり、ある種の異世界のようにすら感じられる。半世紀という時間の中で私たちの暮らしは大きく変わった。そのこと自体にも、興味を持ちました。なので、養蚕業を文化人類学的なアプローチで研究しようと思ったのがきっかけです。

 

>>そもそも「養蚕」に出会ったきっかけは

文化人類学のゼミで、戦後女性達がどのように生きてきたかっていうライフヒストリー(個人の一生の歴史)を聞き取る調査がありました。それで私がたまたまお話を聞いた女性が、戦争でご主人が亡くなっても再婚もせず、蚕を育て、着物を売ることで自立や子育ての基盤にしたという、そういった女性でした。 

ある日、その女性にお話を伺っている最中に、ビニール袋いっぱいに入った繭がちょうど届いたんですね。その時、繭がとても綺麗なので驚きました。繭の美しさや、物質として放つ力に、とても惹きつけられたんです。それと同時に、何とも言えない不思議な気持ちになりました。この大量の繭の中には、それぞれに虫がいて、そこから糸や、私たちが纏う着物ができるのだなって。 

それがきっかけとなって、どのように繭が作られるのか、つまり人は蚕とどういう関係を結んできたのか、ということに関心を持ちました。

 

 

>>私も繭は綺麗だなとは思いますが、繭のパワーに惹きつけられたという沢辺さんは、特別なアンテナを持っていたのですね。最初はどのようにして、蚕と人間との関係を調べ始めたんですか?

ちょうどその頃、クロード・レヴィ=ストロース(※1)という社会人類学者の「神話論理」という本を読んでいて、神話や民話に関心があったということもあり、蚕にまつわる色々な神話や民話を調べることから始めました。

そうすると、蚕の誕生を語る神話や民話には、共通する話の構造があることがわかってきました。

多くの蚕の誕生を語る民話は、女性が傷ついたり、受苦を受けるのですが、そうした女性の身体上に、蚕が化生するというパターンが共通していたのですね。もしかして、それが男性的でマッチョな感じの神話だったら、当時そこまで関心持てなかったかもしれませんね。(笑) 蚕は神話や民話において、必ず女性化されて語られているということも興味を持った理由の一つではなかったかと思います。

それから、いろいろ調べていたら、主に関東甲信越の養蚕地域で、近世から近代にかけて非常に厚い信仰を集めた蚕神に「金色姫」という女神がいたのですが、その蚕神を祀る本社とされる「蚕影神社」が、実は私の故郷・つくば市にあったのです。

(※1 フランスの社会人類学者、民族学者。アメリカ先住民の神話研究を中心に研究を行った。専門分野である人類学、神話学における評価もさることながら、一般的な意味における構造主義の祖とされ、現代思想としての構造主義を担った中心人物のひとり。)

 

「金色姫伝説」

>>それは親近感が湧きますよね。しかし、女性が主役というのは珍しくて気になります。どんな民話ですか。 

この金色姫物語がどういう物語か簡単に言うと、昔、天竺にいた或る王様の娘・金色姫が、亡くなった母親に代わってやってきた継母に何度も殺されそうになるんです。初めは人間が住めない獅子山に連れてかれるんですが、姫は獅子に助けられ戻ってくる。二度目は、鷹が多く住む山へ連れて行かれるが、やはり鷹に助けられる。三度目は、草木も育たない島へ船で流されるんですが、ここでも漁師に発見されて戻ってくる。四度目には、ついに庭に埋められてしまいます。けれど、埋めた所が金色に光るので、王様がそこを掘らせると、やはり死なずにいた。けれど王様は、娘がこの国にいても幸せにはなれないと思い、桑で作った船に乗せて浄土の国に送った。

それで行き着いた先が、その蚕影神社があったであろう、関東平野だった。昔はそのあたりは海だったと言われているので、そこの漁師たちが金色姫を見つけますが、すぐに死んでしまい、それが蚕になった。蚕は生涯で4回脱皮をするんですが、それは天竺にいたとき継母に4回殺されかけたからだとこの伝説では説かれるんですね。金色姫の信仰が伝わっていた地域では、昭和半ばごろまで、実際に蚕の四度の脱皮を「獅子・鷹・船・庭」と数えていました。

 

>>なかなか壮絶な人生の物語ですね・・・汗。ちなみに、当社の養蚕場がある山形県白鷹町にも養蚕神社があります。そこでもやはり金色姫が祀られているのでしょうか。

 金色姫は、どちらかといえば関東甲信越で広く広まっていた信仰で、東北での蚕神は、オシラサマ信仰の影響が強かったと言われています。

このオシラサマの民話は、有名な柳田國男の『遠野物語』にも収録されているお話です。馬と娘が恋に落ちるのですが、当然、人間と動物の恋は禁じられていたため、馬は娘の父親に殺されてしまう。しかし、その殺された馬の皮に、娘が近づいていったら、皮に身体が包まれて昇天してしまう。その後、天から落ちてきたのが蚕だというお話です。地域によってヴァージョンは異なりますが、大体のあらすじは変わりません。

以前白鷹町に訪れた際に見た養蚕神社は、御本尊が馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)でした。これはやっぱりオシラサマの話と関係があると思います。馬の上に乗っている中性的な菩薩みたいな方が御神体なのは、おそらく今言っていたオシラサマの民話と仏教とが混ざり合って、馬と一体になった馬頭観音が蚕の神様になったということだと思います。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/馬鳴

(馬鳴菩薩図、 https://ja.wikipedia.org/wiki/馬鳴)

 

「金色姫信仰の伝播と蚕種商人のマーケティング」

 

>>そうした金色姫やオシラサマといった民話が養蚕農家に広まった背景には何があったのでしょうか。

 

まず、金色姫信仰が活発に広められたのは近世後期ごろからと言われています。なぜその時期かというと、実は、江戸時代までは基本的に日本はそこまで広い範囲で養蚕をやってなかったわけです。

もともと日本では、養蚕は古くから営まれていたものの、そこまで盛んではなかったのです。

基本的に中国大陸から糸を大量に輸入して、それを高貴な身分の人のための衣服として使っていました。ですので、日本の絹はその生産の多くを海外に依存していました。

けれども、江戸時代になって、平和な時代が続き、町人文化も栄えてくると、武士や貴族階級でない人々でも絹を纏うようになりはじめる。すると、もっと大量に絹糸を輸入する必要が生まれました。必然的に、絹を買うために日本の金銀が海外に大量に流出してしまいます。それで当時の幕府は、その生糸の輸入に制限をかけると同時に、生糸の国内生産を奨励していくわけです

 

実際、米沢の上杉藩も、上杉鷹山公が養蚕を藩に普及しました(*2)が、これは上杉藩に特殊だったことではなくて、全国的に幕府から養蚕を奨励する御触書が出ていました。その中でも成功した藩の一つが、上杉藩だったというわけです。

 

(*2 上杉鷹山は、当時莫大な借財を抱えて財政危機にあった上杉藩において、大倹約や殖産興業など次々と藩政改革を成功させ、藩を復興させた。中でも、桑の栽培と養蚕を奨励し、絹織物に移行。出羽の米沢織として全国的に知られるようになった。)

 

こうして近世後期ごろから、国内の養蚕が盛んになっていきました。国内で養蚕が盛んになるにつれて、蚕神信仰も活性化していったわけです。

では、なぜ金色姫は関東甲信越地域で広く信仰されることになったのか。この金色姫の信仰を近世後期ごろに普及していた人達、それは、蚕の種(蚕の卵)を売っていた人たち、つまり蚕種商人ではなかったかと言われています。

 

結城紬は、今では重要文化財の織物として有名ですが、18世紀前半ごろまでは、織物じゃなくて蚕の種の生産場所として、しかも高品質な蚕の種を取れることで有名でした。結城蚕種は一種のブランドだったんです。諸説ありますが、その結城の蚕種商人たちが、結城の蚕種を各地で販売する際に、金色姫物語を語りながら売っていたのではないかと言われています。蚕影神社が位置する場所から結城地方はすぐですからね。

蚕はとても病気に弱いので、必ずしも順調に育つわけじゃない。死んでしまうこともよくあったわけです。なので、蚕たちが元気に育つようにという願掛けが必要だった。蚕種販売と蚕神布教とが一体化していたことは頷けます。

蚕種がびっしり貼り付けられている紙を蚕卵紙といいますが、こうした紙には、馬の絵が書かれたりすることもありました。先ほど述べたように、馬は蚕神と関連するものですから。馬の絵を書くことで、蚕神に加護を請う蚕の世話をする女性たちの心理に寄り添えるものにしていた。

 

本場御蚕種請合包紙、 https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=28330465

 

そうやって、オシラサマとか金色姫物語というものが、ある種の蚕種販売のためのツールとして使われていた側面があった。今で言うマーケティングでもあるわけですね。こうして蚕の民話は、この蚕種商人たちによる経済活動と一体になって普及していったとも考えられています。

  

「物語も信仰も人間が生み出したもの」

 

>>信仰でありながら、マーケティングツールでもあったと聞くと、少し複雑な気持ちも湧いてきますが、養蚕の神社もそうしたマーケティングツールとして作られものの一つだったのですか。 

いえ、蚕影神社そのものの起源は非常に古いと言われています。ただ実際に立派な社殿が作られたり、蚕影神社の神宮寺とされる桑林寺が作られたのも江戸後期なので、やはり養蚕が盛んになってきて、当時の結城蚕種商人のように、絹や蚕種などで財を成した人々によって盛り立てられていったのだと思います。 

実際、筑波の蚕影神社は、近世後期から、さらに日本が開国して、生糸が国策に位置付けられてからは、より一層栄えていきます。昭和中期後期頃までは大変栄えた神社でした。蚕種家や養蚕農家、製糸会社など、生糸によって経済的に支えられていた人たちが、神社にお布施を奉納を積極的にしていたからです。それだけ、日本には養蚕や絹産業で生計を立てていた人たちが沢山いたということですね。

 しかし、国内養蚕業が衰退した今、蚕影神社は無人の状態となってしまっていて(※3)、守る人も殆どいなくなってしまい、かなり荒廃しています。栄枯盛衰を目の当たりにします。物語も信仰も人間が生み出したもので、必要だから作られて、必要なくなってしまえば消えてくという自然な話ではあるのですが、その光景を見た時は少し寂しい感じがしましたね。

 

(蚕影神社、https://ja.wikipedia.org/wiki/蚕影神社)

※3 蚕影神社の例祭などの際は、筑波山神社の宮司さんが神主を務めている。

 

>>そういう意味では、民話や信仰でありながら、消費されるモノになってしまったと・・・。

蚕影神社の金色姫には、きっとそうなっていった側面もあったのだと思います。開国以降、急激な速さで、国を挙げて生糸産業が活性化されていくなかで、養蚕地帯において、金色姫は一種の流行神のような存在になっていったわけです。

あらゆることの成長には、スピードがあるじゃないですか。ある一定のスピードで成長していけば、それこそ持続的成長や発展という未来もあったのかもしれないのですが、日本の養蚕は、近代以降、コントロール不能なほどのスピードで急速に成長していきました。

その際、前近代社会において存在していた様々な制度や仕組みというものは、少なからず壊さざるを得なかったわけです。生糸は外貨を獲得するための最大の手段になりましたから、海外に大量に輸出できるに耐える程の生産体制が求められた。でも、その生産体制というのは、生糸が大量に消費される条件がなくなってしまうと、機能しないわけです。

今とみひろさんがやろうとしていることは、その急速に拡大した時の養蚕生産のモデルではなく、持続的な形としての養蚕や絹生産を目指しているように思います。

( Vol.2 へ続く)

(写真:梅本健太)


<プロフィール>

沢辺満智子 (さわべ まちこ)

 >>>https://www.polyphonypress.com

1987年茨城県生。社会学博士。一橋大学大学院にて日本蚕糸業の近代化と民俗的想像力をテーマに博士号取得。大学院在籍中の2012年より、都内広告会社に勤務し、アートや国際交流のイベント等の企画運営を経て2019年に独立。2020年2月につくば市にて法人化。学習院大学、多摩美術大学等で非常勤講師を務める。単著に『養蚕と蚕神ー近代産業に息づく民俗的想像力』(慶應義塾大学出版会)、共著に『VIVID銘仙ー煌きの着物たち』(青幻舎)等。

2件のコメント

私の高祖父は遊蚕館という名前で、信州松本、横田にて養蚕業を営んでおりました。
明治の中頃に開業したのでしょう。後発組で、優秀な蚕種を営業の強みしていたようです。

名を角太郎と言いまして、入り婿でした。
彼の顔写真が残っておりまして、その顔が、私の父をして「因業そうな顔」(笑)、
と評されており、非常に私的に印象深い人物であります。

角太郎氏は、遊蚕館代表として、群馬、埼玉、茨城に営業に出かけていたそうです。
群馬は富岡製紙工場、埼玉は熊谷の片岡製紙工場、茨城は結城紬の産地ですので、
ポイントをついて営業をしていたのでしょう。

入り婿なので、家にいずらかったのかもしれません(笑)。
色々な蚕種の卵を馬の絵の入った和紙に貼り付けて、営業をしていたのでしょう。
ですから、まだまだ、多様な蚕種が売りになっていた時代のことだと思われます。

営業の途中で、和紙に貼り付けた卵が孵化してしまうこともあったのかもしれません(笑)。
営業エリアは、温泉宿も近いので、角太郎氏は羽伸ばしていたのでしょうか。

このサイトで、だんだんと蚕種が統一されていく過程を初めて知りました。
また、養蚕は、日本の近代化、文化の進展の基盤であったであろうことも再認識することができました。
有名な事例では、養蚕業が豊田自動織機に、またトヨタ自動車に連関して、発展したのですし。

ここに、日本の発展を支えた一人である角太郎氏に合掌をすると共に、このサイトに導いたのも
その彼の御霊のような気がしましたので、書き残したいと思います。

有難うございました。

藤木裕 2021年 12月 30日

養蚕について、群馬県川場村の春駒を取材した経験があります。養蚕の作業を歌にした踊り。この踊りを門付けしていました。読ませていただきたいと思いますね。

亀島 敬司 2020年 4月 20日

コメントを残す

コメントは承認され次第、表示されます。